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日経「ネット興亡記」を読んで蘇った日本ビクター時代の記憶、もう少しの勇気、繋がることの大切さ

日経新聞「ネット興亡記」の連載が、今日の9回目で終わりました。

  知られざる楽天の原点 「あの会社マネしよっか」 ネット興亡記(3

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その3回目では、三木谷浩史さんが楽天を起業した前後のことが書かれていました。それを読んで同じ時代にネットビジネスに挑戦した記憶が甦り、このnoteを書き始めました。失敗に終わった私の挑戦でしたが、自社の変革や新しい挑戦を実行しようとしている皆さんに、なにがしかの参考になれば嬉しいです。

私が技術企画室に配属されたわけ

私はVHSの開発メーカーであった日本ビクターの営業出身で、営業本部企画部に在籍していた1990年、人材斡旋会社から誘いを受けたことをきっかけに会社を辞めることにしました。VHSの成功で8千数百億まで拡大した売上も停滞していたうえ、再度成長するストーリーも考えられずにいたためでした。

ところが、手続きも終わり挨拶をして回った最終日にどんでん返しがありました。昼間挨拶した先輩と、会えなかった以前の上司が夜飲もうと誘ってくれたのです。そして2軒目に行ったところに、当時交代したばかりの社長が待っていたのです。

私は会社に残ることになり、新社長になって作られた技術企画室という部署に配属されました。私の新しい仕事は、社長が掲げた創立65周年記念の技術展示会を企画・実行する事務局になりそうでしたが、私自身は、展示会に数億円もかけるのはもったいないと感じていました。

そこで思い切り大きな、予算10億円の企画書を書きました。会場は2年数ヶ月後にできあがる予定のパシフィコ横浜にしました。「そんなにかかるならやめよう」という反応で良いと思いましたが、実施まで2年以上ありましたので、もしやるなら次代へ向けた社内プロジェクトの開発費用を応援したいという気持ちもありました。

企画書はそのまま承認されて戻って来ました。

ビクターの原点、そして事業の意味「気持ちを伝え合うお手伝い」

研究所の企画系から1名、入社数年以内の社員1名が加わり65周年テクノフェア準備室での仕事が始まりました。室長は技術企画室長が兼務でした。

各事業部や研究所へのヒアリングと並行して、社内各部門から優秀な若手社員が参加してコンセプトづくりが行われ、出来上がったサブタイトルは「気持ちを伝え合うお手伝い」でした。

これは、日本ビクター及びビクター音楽産業がその原点であった蓄音機の時代から、そしてそれ以降も、演奏者やクリエーターそして一般の人々の気持ち=表現を記録し、媒体に保存し、再生して伝える、ということを生業としてきたこと、そして今後もこの領域での技術を発展させ、音楽や映像文化に貢献して行くことを表したものでした。

1993年2月に、開業間もないパシフィコ横浜において「日本ビクター65周年テクノフェア」は開催され、世界からお客様を招待して成功裏に終了しました。

しかし私の心の中は空虚な気持ちが半分以上を占めていました。なぜなら技術展を通して、自分自身が、今後のビクターグループの成長ストーリーを確信することができなかったからでした。

情報スーパーハイウェイ構想、テレビのニュースにインスパイアーされて考えたこと

展示会終了後は自由な時間が多くありましたので、家では営業本部時代に個人的に勉強していたM.E.ポーターの「競争の戦略」などを読み返し、自分なりに納得できる成長ストーリーを作れないものかと考え続けていました。

ある日テレビで、就任間もないクリントン政権のゴア副大統領が提唱しているという、情報スーパーハイウェイ構想についてのニュースが流れていました。私はこのニュースに強くインスパイアーされ、やがて到来するはずのネット時代について考え始めました。

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写真はクリントン大統領とゴア副大統領(Wikipedia)

「気持ちを伝え合うお手伝い」を生業とするビクターはその時代に向けて何をすべきなのか、どのようにすれば新たな成長機会を得られるのかということです。

SP、LPレコード、ビデオ、CDなど、どの時代においてもビクターは制作、媒体への記録・製造、その流通と再生機器の販売を事業としてきました。そして幸いにもVHSでは大きな成功を収めましたが、このころまだ研究所のテーマであったDVDの時代(発売は1996年)に、同様のポジションを得ることは不可能でした。

しかもDVDの次に到来するはずのネットワーク流通の時代には、コンテンツの流通そのものが、それまでのパッケージメディアの物流から通信(ネットワーク)に置き換わってしまうわけです。

通信速度及びデータ圧縮技術の進歩から考えると、音楽系では10年もかからず、映像系でも15年もあれば実用的なサービスが開始できると考えられ、今から対策を考えておかなくてはビクターの事業領域がやがて収縮してしまうことは明らかでした。

1992年から93年前半がどんな時代だったかと言えば、仕事の文書作成ではワープロ専用機を使い、自宅にはまだ初代マッキントッシュがあり、マック以外のパソコン選択肢はDOS-V、通信は電話回線のダイヤルアップによるパソコン通信、ネットなどという感覚には程遠い世界でしたが、情報ハイウェイ構想に思いを馳せれば、全く違う世界が見えていました。

私のような者が言うまでもなく、通信技術が進歩する速度は研究所や技術部門の誰もが知っているはずでしたがまだ危機感はなく、少なくとも私にはそう感じられました。

ただ、これはビクターが遅れていたのではなく、その後わかったことですが業界各社においても大同小異であったと思います。(だからアップルやアマゾンに負けてしまったとも言えますが。)

このような技術進歩によってやがて起きるに違いない音楽・映像コンテンツ流通の大転換は、ビクターにとって危機であると同時に大きなチャンスでもあります。もし他社に先駆けて通信ネットワークによる音楽や映像コンテンツの流通を握ることができれば、VHSがそうであったように大きな成長機会を得られることは明白です。

しかしながら音楽と映像ソフト業界の既存事業者であるビクターグループが、その流通をぶっ壊す側に立つという話ですから、簡単に話が進むわけはなく、しかも通信速度の問題もあってすぐに実現できるわけでもありません。

そこで私は次のように考えました。
まず通信スピードに依存せずに成り立つネットワーク事業を成功させることを考えよう。成功できれば資金も技術もついてくるはずだ。そうすれば、ネットワーク時代において、ビクターが音楽や映像コンテンツ流通の最良ポジションを獲得することも夢ではない、と。

「ネットで買ってコンビニで受け取る」ベネフィットオンライン構想

この時点でまだ始まっていませんでしたが、オンラインショッピング自体は誰でも考えることです。ちょうどFAXによるアスクルのサービスが始まったところでしたので、もしかすると彼らはネット社会を見越してそのインフラとなることを目標とし、今事業を開始したのかもしれない、うかうかしていられないと思いました。

どのようなサービスを提供できれば、またどのようなポジションを築ければコンテンツ流通も含め、将来にわたって優位な立場を築けるかを考えた結果、重要なのは課金と決済のシステムであると自分なりに結論着けました。

しかしながらこれも誰もが考えるはずであり、この領域に確たる技術を持っているわけでもない我々が、他社より先に競争力のあるシステムを構築することは望み薄です。

もう一つ、キーとなり得る重要な要素があると考えたのは物流のシステムでした。オンラインショッピングでは購入したユーザーに商品を届けるための物流を必要とし、ネットでの消費が拡大すれば最重要な要素となるはずです。

最初から物流に便利な特長を持たせることができれば、ショッピングを利用するユーザーにとっても、販売を行う事業者にとってもメリットとなり、オンラインショッピングのインフラポジションを獲得することができると考えました。

私は物流システムの特長として、当時成長を加速していたコンビニに目を着けました。ネットで購入された商品を、販売事業者からピッキングし、昼間不在勝ちな自宅だけでなくコンビニ等でも受け取れる、その場で決済もできるというシステムができれば便利です。このアイデアに至ったとき、視界が一気に開けた気がして嬉しくなりました。

そのアイデアとの前後関係を覚えていませんが、1993年4月、私は商品開発研究所企画グループに所属しました。そして考えた構想を企画書にして提案を開始しました。少しあとになってからですが、私はこの構想に「ベネフィットオンライン」という名前をつけました。

私のこの提案はすぐに採り上げられることはありませんでした。また、アイデアは特許を獲得できる可能性もあると感じましたので、知財部門にも相談しましたが本気で取り合ってはもらえませんでした。

今から考えればきっと危機感やビジネスチャンスを共有できた人たちもいたはずで、そういう人達と組織を超えて強く繋がっていればその後の流れやスピードも変わっていたかもしれません。まだアマゾンさえ生まれていなかったわけですから・・・・。ただ私にはそうした努力をするための、もう少しの勇気が不足していました。

ベネフィットオンラインの事業化準備が始まりました

あっという間に時間は流れましたが、1995年10月に通信を意識したマルチメディア事業戦略本部が作られ、私はその傘下の情報配信事業推進室に所属しました。ベネフィットオンライン構想も重要なテーマとして位置づけられたのです。

私は現在のNTTぷららの前身組織(当初日本ビクターも出資)のサービスコンセプト等を固める仕事に出向となり、その傍らベネフィットオンラインの事業化準備も進めるということになりました。

ちなみにこの年の7月にアマゾンが米国で書店サービスを開始し、11月にはWindows95が発売されてパソコンブームが始まったという年です。IIJが個人向けインターネット接続サービスを開始したのは翌2016年12月、楽天のサービス開始は2017年5月ですから、決して遅いとは言えません。

ベネフィットオンラインは、「ステーション」と呼ぶ、コンビニ等の店舗での受け取りを選択できる物流システムに特長がありましたので、物流会社及びコンビニ会社と協業する必要がありました。担当常務からヤマト運輸とローソンにお願いしてもらい、実験システム構築への協力を取りつけることが出来ました。

私もその時同席させてもらいましたが、少なくともその時点では両社ともに、やがて到来するネットワーク時代における最重要インフラ事業になるという認識は、まだなかったように感じました。

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写真はオンラインショップとステーション(店舗)候補
企業への提案書表紙です。(1996.03.01とあります。)

その後新星堂など販売側企業にも加わってもらい、実際に購入してコンビニで受け取れる実験システムが稼働し、1997年2月ベネフィットオンラインは株式会社として出発しました。

事務所は溜池にありましたが、このころ電気業界だけでなく、様々な業界の企業の方々がベネフィットオンラインを訪ねて来られました。インパクトがあったことは間違いありませんでした。

会社の事情でオンライン事業から離れることに

この年5月に楽天のサービスが開始されました。事業会社設立は2月だそうですからちょうど同じ頃だったわけで、この頃になると様々な会社がオンラインの事業に関心を持ち、活動を始めていました。

私は焦ることはではなく、むしろ良いことではないかと感じていました。というのは例えば楽天のような会社とも組めるし、むしろそうすべきとも思っていたからでした。

ベネフィットオンラインが単独で多くのショップを集め、ユーザーを集めることは簡単ではありませんが、ステーション店舗網を含む物流までのシステム基盤を提供できれば事業として成り立つ可能性があり、構想を考えたきっかけである将来のデジタルコンテンツ流通にも大きな布石となるはずです。

日本ビクターのVHS成功の要は、ソニーが先行して発売したベータマックスが1時間記録だったのに対して、それよりも小型で最初から2時間を基本としたこと、それ以上に、親会社である松下電器産業だけでなく同業他社にもオープンに技術を開示し、各社の技術も取り入れて完成度の高い初号機を発売するとともに、VHS連合を構築したことでした。

もしビクター1社、または松下電器産業との2社だけでVHSを開始していたら、ビデオの規格戦争は違う結末になっていたと思われ、ベネフィットオンラインも同様に提携戦略が重要と考えました。私は起案者として、また取締役企画室長として、こうしたことを推進するのだと思っていました。

ところが会社設立から3ヶ月も経たない時点で、会社の「大人の事情」によって、私は全く無関係な新たなプロジェクトに異動することとなり、私の挑戦は終わってしまいました。その後ベネフィットオンラインがどのような変遷を経て終了したのか、私はあまり知らないので書くことはできません。

今から考えれば日経新聞の連載記事にもあったように、楽天も含めて、いろいろな会社がすぐ近くで事業を開始して挌闘していたわけで、訪ねてみても良かったと思います。ただ、異動後はそういう気力もわかないほど落ち込んでいました。

その後もう一度、楽天との繋がりを感じることがありました。

私が最初に知財部に行った時からはずいぶん時間が経っていましたが、1997年1月に、会社は私を発明者としてオンラインショッピングの特許を出願してくれました。

この出願はやはり遅かったようで国内では成立しませんでしたが、修正をしながら米国で成立しました。その後私が日本ビクターを退社してずいぶん経ってから、この米国特許が譲渡された時に、私は発明者として社内規定の金額を受け取りました。

既にクールフライヤーを起業しており、ほとんど忘れていた事でしたので嬉しかったのですが、その後に最終譲渡先が楽天だと知ってまた驚きました。

コンビニでの受取りや決済が当たり前であるように、クールフライヤー構造が当たり前になる日が来る!

私は今クールフライヤーの事業化を進めようとしています。クールフライヤー原理の発想に至ったときそして第三の特許につながる現象を見つけたとき、私はベネフィットオンラインの構想を思いついたときと同じように視界が開けたと感じ、嬉しい気持ちになりました。

ベネフィットオンライン構想の「ネットで注文してコンビニで受け取る」は今ではまったく当たり前のことになっています。クールフライヤーの構造も今は特殊と感じられますが、必ず当たり前の構造だと言われる日が来ると思っています。

とは言え起業を成功させることは簡単ではありません。多くの支援者のみなさんと繋がること、仲間と繋がること、そしてクールフライヤーを一緒に育ててくれる会社と繋がること。繋がることの大切さをあらためて心に刻んでいます。

 

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